2008年11月26日
第1回 伊万里わーやく歴史探検隊(3)
第1回 伊万里わーやく歴史探検隊(2)「伊万里陶器商資料館「丸駒屋」」はコチラ
次に目指すのは、臨済宗南禅寺派万明山円通寺。
厳しい修行道場として知られ、九州四大名刹に数えられるお寺です。

・・・とその前に、お団子で腹ごしらえです。
本町商店街の皆さんから、お茶とお団子の差し入れです。
思いがけないおやつに、子供達も大喜びです。

さて、改めて円通寺へ出発!
旗を先頭に、本町アーケードを進みます。
ちなみに、このアーケードは来年撤去される予定です。
「ああ、昔アーケードで団子食べたねえ」と、子供達の思い出に残れば幸いです。

さらに仲町観音通商店街を歩きます。
こちらは、一足先にアーケードを撤去し、白壁風の建物とカラー舗装が整備されました。

円通寺に到着です。
おや!?
またまた着物を着た人がいますよ!

ここでは、円通寺と伊万里県についての説明がありました。
ここ円通寺は、明治4年に出来た「伊万里県」の仮県庁舎が置かれたところです。
今の佐賀県と、長崎県の対馬までが一つの県であったため、港町で商業都市であった伊万里が県庁所在地に選ばれました。
しかし、約半年後には再び県の範囲が変えられて対馬が長崎県へと編入されたため、県庁所在地は佐賀へと移り、伊万里県も佐賀県へと改められました。

伊万里県の権令(県知事)として赴任してきたのが、幕末の英傑「山岡鉄舟」です。
あの勝海舟などとともに「幕末の三舟」と称された有名なお侍です。
勝海舟と西郷隆盛が会談し、江戸城の無血開城を決定したことは有名ですが、その事前交渉を行ったのがこの山岡鉄舟です。
西郷隆盛率いる官軍の中に、たった独りで乗り込んだ全身肝っ玉の塊のような人でした。
そのお陰で、江戸の町が戦火に焼かれずにすんだのです。

ここでの寸劇は、町民と町娘が「なんで山岡鉄舟さんのごた有名かお侍の、伊万里に来らしたとやろか?」という会話を通して、当時の伊万里の繁栄振りや位置づけを分かりやすく説明しました。
意外と、子供達よりも親御さんたちの方が、「へえ~」という顔で聞いておられました。

そして、皆で記念写真です。
今まで何気なく前を通っていたお寺に、幕末の英雄が来ていたとは!
歴史を知ることで、街の風景が少しずつ違って見えてきます。
<つづく>
次に目指すのは、臨済宗南禅寺派万明山円通寺。
厳しい修行道場として知られ、九州四大名刹に数えられるお寺です。
・・・とその前に、お団子で腹ごしらえです。
本町商店街の皆さんから、お茶とお団子の差し入れです。
思いがけないおやつに、子供達も大喜びです。
さて、改めて円通寺へ出発!
旗を先頭に、本町アーケードを進みます。
ちなみに、このアーケードは来年撤去される予定です。
「ああ、昔アーケードで団子食べたねえ」と、子供達の思い出に残れば幸いです。
さらに仲町観音通商店街を歩きます。
こちらは、一足先にアーケードを撤去し、白壁風の建物とカラー舗装が整備されました。
円通寺に到着です。
おや!?
またまた着物を着た人がいますよ!
ここでは、円通寺と伊万里県についての説明がありました。
ここ円通寺は、明治4年に出来た「伊万里県」の仮県庁舎が置かれたところです。
今の佐賀県と、長崎県の対馬までが一つの県であったため、港町で商業都市であった伊万里が県庁所在地に選ばれました。
しかし、約半年後には再び県の範囲が変えられて対馬が長崎県へと編入されたため、県庁所在地は佐賀へと移り、伊万里県も佐賀県へと改められました。
伊万里県の権令(県知事)として赴任してきたのが、幕末の英傑「山岡鉄舟」です。
あの勝海舟などとともに「幕末の三舟」と称された有名なお侍です。
勝海舟と西郷隆盛が会談し、江戸城の無血開城を決定したことは有名ですが、その事前交渉を行ったのがこの山岡鉄舟です。
西郷隆盛率いる官軍の中に、たった独りで乗り込んだ全身肝っ玉の塊のような人でした。
そのお陰で、江戸の町が戦火に焼かれずにすんだのです。
ここでの寸劇は、町民と町娘が「なんで山岡鉄舟さんのごた有名かお侍の、伊万里に来らしたとやろか?」という会話を通して、当時の伊万里の繁栄振りや位置づけを分かりやすく説明しました。
意外と、子供達よりも親御さんたちの方が、「へえ~」という顔で聞いておられました。
そして、皆で記念写真です。
今まで何気なく前を通っていたお寺に、幕末の英雄が来ていたとは!
歴史を知ることで、街の風景が少しずつ違って見えてきます。
<つづく>
Posted by まちづくり伊萬里 at 23:00
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